日記

なんとなく

母のことは

私が当時不登校をしていた時、母は今の私ほどオタオタした感じはなかった。

しかしどっしり構えた母親だったのかと言われればそうではない。

 

私自身本当に当時の記憶が曖昧で、息子と重ねてじわじわと思い出す程度。

それが無ければ辛くて死にたくて2年半かけて体のどこかに傷を付けていた記憶しか無かった。

危ない。

 

母方の父、祖父が営む卸屋で働いていたので、なかなかつらかったろうなぁと今なら思う。

祖父母の家と隣接した借家で私達家族は住んでいたので、台所の窓を開けると祖父母のベランダにまたげば行けるくらい隣同士のくっついた住宅街だった。

 

祖父は熱心な宗教家だったので、朝早くは隣の家から線香の香りと何やらお経のような声が毎朝毎晩聞こえていた。

私にとっては優しい祖父だったけれど、祖父の家系は教師や公務員が当たり前だったので、中卒の水商売(コック)だった父とは何かと折り合いが悪かった。

本当は医者と結婚して欲しかったんだって。

母はそんな堅苦しい家が嫌で、医者との見合い話が上がったのをきっかけに、若い頃荷物一つで家を出たことがあったらしい。

 

そんな中、私が不登校になってしまった時、さぞ口出しされたんだろうなとは容易に想像できる。

私も直接色々は言われた。

そこまで気にはしなかったけれども。

 

神様の宿るお札で背中優しく叩かれたよ。

神木を燃やした木炭の粉を飲まされたよ。

数珠で頭ごりごりやられたよ。

高明だと言われる人が来て、学校に行けるようになる催眠術をかけて貰ったよ。

 

まぁ残念ながらどれも全く何も響かなかったんだけど。

催眠術に至っては半分寝てたからな私。

 

そんな中そんな事を娘の私は想像すらしなかったけど、きっと沢山嫌ごと言われていたんだろうな。

 

すごく母に守られていた事を思い出す。

 

唯一、一度だけ感情的に言われた事は覚えている。

なんで!なんで行けないの!なんで行けないの!と母は言いながら私を引きずって泣きながら朝格闘した事だ。

いっぱいいっぱいだったんだろうな。

いつだったか、どうなったかなんて全く覚えてはいないけれど。

 

最終的に私が母にしがみついて悲鳴を上げながら泣いたから、母は私を抱きしめたままやめてしまった。

なんで…と絞り出した母の言葉を最後に、それからの記憶はない。

 

心が張り裂けそうなくらい、母のその時の心境に同調してしまう。

 

しかし、私が尊敬する所は、それ以外責められたり泣かれたり、嫌味を言ってきたりの姿が記憶にない事だ。

 

記憶にないだけで、私が気にしていないだけかも知れないし、細々とはあったかもしれないけれど、私が覚えてないんだから、無いと同じだよ。

 

私は一人で大丈夫だと、不登校経験者だし、気持ちも分かるからと、息子の事で躍起になりながら、旦那にも最低限の事しか報告しないままだった時、キリキリに張ったその糸を簡単に切って、ゆるく結び直したのは母だった。

よくある、いつも通りの風景の中、ラーメン屋を手伝いに行ってて、2時半ごろ休憩でダラダラとラーメン食べている時だった。

息子の話になって、いつものように、まぁ、あいつも色々考えてるんだろと、理解のあるようなざっくりした言い方で話をしていたら急に、

『そう。あの子は大丈夫よ。賢いもの。私が心配してるのは、あの子じゃない。あんたよ。潰れないか心配よ。一人で抱えてるような顔して、平気な顔して、あんたが心配よ。』

と言われて少しヒヤリとした。

 

そこで私は素直に泣ける娘じゃないから、誤魔化すようにラーメン食べながら

『いや、まぁ、自分が息子以上に親に心配かけたからね。これで私が潰れちゃダメだろ?』

と笑ったら

『あら、やっと分かったか。でも、一人はつらいよ。』

と言ってその会話は終わった。

 

帰りの車で泣きながら帰った。

母の割合が大きい同士だなと感じた。

 

だから大阪で家族四人で暮らしたいと言った時、一番それがいい!と押してくれたのも母だった。

 

あんたが人生歩んであんたが作った家族、それを一番大事にしなさい。

 

私も、息子や娘が大人になって悩んだ時、そんな的確に背中を押せるかなぁと、考えさせられた。