日記

なんとなく

ちらりと見ただけ

ツイッターのタイムライン上で流れてきた物をちらりと見ただけなんだけど、今まさに子供が中学生で行きしぶりが始まっている子供の親の呟きを見た。

 

あいつが何を考えているのか分からないとイライラしている様子だった。

 

そんな時私は、分かる…と思う心と、私も親に思わせていたのか…と思う心が同時に出てしまう。

 

恐らくその時の親の心情は、どんなに周りが、大丈夫、今は時間をあげてと言ってもなかなか受け入れられないだろうなぁ。

見えない壁を作る。親も子供も見えない壁ができる。

 

息子は今落ち着いたように、朝は起きて、ぼちぼち適応指導教室に行って、今の時間をひたすら無難に過ごしているようだけど、毎日そうかと言われれば、そうではない。

先週辺りから起きなくなった。何度読んでも起こしても起きないし覚えてない。

ここまで来たらこれ起立性調律障害なんだろうなぁと確信する。

なのに腹がたつ。

その度に一生寝てろよと思う。

体の不調を訴えられても、そんな生活してるからだろ。まともに飯食って運動してみろよ。とまで思ってしまう。

これはもうきっと、なくなることはないんだと思う。

色んな事に理由があるのだとは思う。

白か黒かだけではないけれど、基本やっぱり白か黒なんだと思う。

 

朝起きられない事がグレーなら、それで納得すればいいのに、どちらかに理由を置こうとする。

だけど、それを親の安心の為の押し付けだと言うのは、親にとってあまりにも酷なセリフじゃないのかなとも思う。

 

 

ツイートの子供さんは何が理由で行き渋っているのかはっきり分からない様子だったけど、親の方はもっと分からないと言っている。

そりゃそうだ。理由が無いのに何故行けない。

はっきりした理由があるなら、それを取り除けばいい。

大人は黒か白かをつけたがるから、イライラするだろうなあ。

理由がはっきりしても、後にじゃあこれは?じゃあこれは?と沢山白黒が出てくるからキリがない。

ほんと、何で何だろうなぁ。

私もイジメられたり、勉強について行けなかった訳じゃなかったからなぁ。

息子もきっかけはクラスメイトの嫌がらせだったろうけど、今も行けない訳だから、それだけじゃなく、また似たようたものかなぁとも思うし。

 

多様性多様性と言う時代になって、猫も杓子も言われるのは流石に違和感あるけど、一人一人に合う環境を作るのは、何十年何百年経っても難しいんだろうな。あっちを立てればこっちが立たず。

 

これは不登校で悩んでる親子だけじゃなく、どんな環境の人間でも言える事だよね。

だからこそ無限に根が広がるように求められる環境も広がる。

 

話は戻って、不登校児本人の気持ちと、親の気持ちがなんとなく分かるようになってから、ますます人から相談を受けた時にとっさに言葉が出なくなった事を思う。

 

何も言えなくなる。

頷くしか出来なくなる。

下手なことを言って、言葉を誤解させたんじゃないだろうか、全く筋違いな事を言ったんじゃ無いだろうかと思うと、言葉に詰まる。

わかる。分かるんだよ。でも言葉がなかなか出ない。

ウチに帰って、ふぅっと息をついて、思い出しながら、あ、こう言えばよかったのかもと思っても、そのタイミングを逃してるんだよな。

 

発破をかける事も出来ず、慰める事も出来ない自分にもどかしさも覚える。

 

だって私も必死にもがいてる最中だものね。