言葉の重み
不登校を経験して、不登校児の子育てを経験しても、いまだに難しいなぁと頭を悩ませる事は沢山ある。
『今は見守って』や『お母さん頑張りすぎないで』『学校くらい行かないでも大丈夫』『生きてるだけでいいんです』と言うアドバイスめいた優しい言葉もその一つ。
あくまでも私は、と言うことにしておくけれど。
その言葉は確かに間違いはなく、優しい言葉でもある。その通りである。
義務教育中の不登校児がいなくなった我が家としてはまぁ確かにその通りだったな…。と言うしかない。
だけど当時その言葉達で救われたかどうかと言うとさっぱりである。
今思い返しても『本当だ!どうにかなったね!』と思い出してあははと笑えるかと言ったらそれもさっぱりである。
親は必死なのである。
刹那的な生き物を育てている訳だから、あやふやな何とかなるを言われても頭に入っては来ないし軽くもならない。
その場ではスッキリしました!と思ってもそれは単純に話を聞いてもらったすっきり感であって、家に帰って日常に戻るとそんなもの消えて無くなる。
お互い死んでやろう殺してやろうまで葛藤する感情の中に、そんなお花畑の言葉は入る隙間などない。
でも、なんとかなる、大丈夫と言う言葉が出るのもすごく分かる。
元気付けよう、慰めようとするとその言葉しか出ないのも分かる。
私は、私ならどうかな…。
どちらの気持ちも少しは分かるから、きっと感情や経験が溢れすぎて、溢れた中から言葉を選ぶことができないかもしれない。
こう言う道もある、こう言う施設もあると教える事も出来ないかもしれない。
てか必死すぎてボヤッとしか実は覚えてないのは私の頭の弱いせい…。
あの施設の名前何だったっけ?どうやって通ったんだっけ?電話番号残ってたかな?
程度にしか覚えてないな…。
しかもそれが明確に子供達の将来にとって役に立つ道なのかと聞かれたらそれこそ分からないや。
その引き裂かれる様な痛みの悲しみは分かるよ。と同調しか出来ないから、相手を傷付けない、優しいその言葉は選ぶのがとても難しい。
私が片思い中のお兄さんはそれをいともたやすく私に言えたのだから大したものだともしみじみ思った。
重い軽いは関係なくね。
そんな時ほど『何とかなるから大丈夫』と言う言葉はあやふやで曖昧で頼りがいのない言葉はない。
私は一体何を学べたのだろうと思う。
自分が不登校児で、少しは子供達の気持ちが分かるとタカを括っていた。
子供達の気持ちも分かるし、自分もどうにかなったのだからその親にも大丈夫!と自信を持って言える!
そんなものかき消された。
甘い。
親子の数ほど人の感情の種類はあるけれど、共通する事と言えばそんなあやふやな叱咤激励はさっぱり効かない事が分かった。
未来に明確な物などないけれど、明確な何かが欲しくてもがいている人間には藁にもならない。
ならないのは多分どの親も分かっているから。実は心の奥底で、そんなアドバイスや慰めは既に分かっているから。
そう考えるとカウンセラーやアドバイザーは奥深いな。
ある意味恐ろしい。
私はなれそうも無いや。
ただ、これから出会うかもしれないそう言う親と友達になったら、話しを聞いてあげるしか出来ないや。
あぁ、なんにも学べてないなぁ。
とりあえずは自分の子供達をまだまだ育てないとなー。